大乗仏教は紀元前後頃、インドにおいて成立し、中国を経て日本において豊かに展開された。いわゆる仏教が三国伝来ともいわれる所以である。なお、その大乗仏教はその禅と浄土との関係からいって
の三段階に分けて考えられる。
ところで、日本仏教は宗派(祖師)仏教ともいわれ、従来、禅は禅で、浄土は浄土で固定的に考えられ、またこれら両者のあいだには殆ど交流も見られない状況である。それゆえに禅は禅で独立し、浄土に関しては我れ関せずであり、浄土もまた禅に対して同様である。そして、第三者の立場に立てば、日本仏教には大きな流れとして禅と浄土との二つの流れがある、ということになる。とりわけ京都の町等を歩くとき、そこに立ち並ぶのは禅宗と浄土宗の大伽藍ばかりでその印象はいよいよ強まる。
ところで本論は、禅が禅として成立し来たるその根源底を尋究し、また浄土は浄土で同様にその深奥にせまることを試みるものである。そして、このようにその両者の由来を求尋する時、これら禅浄の両者がどこまでも共通の一つの源底において成立していたことが考えられるのである。そして、それが大乗仏教そのものの根源底なのでもある。
そこからまた禅浄の両者が別なものではなく、またそれら二者を双修するのでもなく、どこまでも最初から一つのものとして統合的に考えられることもできるのである。そしてそれを百パーセント実践を通して実現していったのが山崎弁栄(1859―1920)であった。山崎の存在は、一般的には浄土宗内の革新運動者としてみられがちであるが、決してそれのみにとどまるものではない。実にかれは、千数百年にも以前に分裂していった禅と浄土とを、その根源に還ることによって、それら両者を止揚し統合していったのである。それは大乗仏教のそのものの革新といえる意義を有しているのであり、さらには、そこには、大乗仏教の新たなる創造を意味する点さえもが考えられるのである。
インド大乗仏教は、大きく3期に分類される。すなわち、初期(第1期)、中期(第2期)、後期(第3期)の三段階である。初期大乗仏教とは紀元前1世紀後半から龍樹(150~250)の活躍した時代まで、中期は龍樹から世親(4~5世紀頃活躍)の時代まで、そして後期の世親以降と考えられている。
ところで初期大乗仏教の成立には一つのメルクマールとしての重要な経典類の成立が考えられる。それは、おそらく紀元前1世紀の後半頃に成立していった原始般若経典群である。それらの経典群、たとえば『道行般若経』『小品般若経』あるいはサンスクリット語の『八千頌般若経』等においてはじめて「大乗」すなわちマハーヤーナの語が登場し、また大乗仏教独自の概念たる「空」シュンヤターが展開されてゆくからである。これらの経典と共に大乗仏教は本格的に展開してゆくことになる。
ところでそれら最初期の大乗経典の成立する更にそれ以前に、すでにかかる大乗精神を成立せしめてゆく時代が先行していた。それはいわゆる「大乗以前の大乗」、すなわち「大乗」の言葉はみられぬが、すでに豊かに大乗の精神が展開せられていた時代である。それは学会においても「原始大乗仏教」―原始仏教ではない―という形で究明されつつある。(たとえば静谷正雄『初期大乗仏教の成立過程』昭和49年)。
原始大乗仏教とはいわゆる大乗仏教が成立する約50年間先行する期間で、まだその段階では「大乗」も「空」も登場せぬとはいえ、大乗仏教がそこから無限に豊かに創造的な展開がなされてゆく土台が存しているのである。
ところでかかる原始大乗仏教の核となるものがいわゆる仏塔(ストゥ―パ)崇拝であった。それまでの仏教は僧院仏教でアビダルマと称せられる出家比丘たちによる煩瑣な哲学が行われていたが、それらは一般大衆にとっては無縁のものであったのである。しかしながら、釈尊の舎利が祀られる仏塔の成立におのずと大衆の信仰は集中せられてゆくことになるのである。仏塔とはそこで数百年前に滅した釈尊が実はその舎利=仏塔のところに現前し、大衆はそれと直接に交わってゆくのである。それはまさに大乗仏教における念仏そのものの始まりであった。それはまた、アビダルマにおける法中心から仏中心への転換を意味するものでもあった。
インドを初めて統一した阿育王(アショーカ王、治世紀元前268━232)は八万四千ともいわれる無数の仏塔をインド全土に建立したといわれている。たとえば釈尊も未踏のガンダーラにもその遺跡は残されている。かかる無数の仏塔の建立はおのずと時空の限定を超えた仏身の遍在omnipresenceに連なり、そして仏身はその一々に現前presenceする。後代『華厳経(六十巻)』で「仏身充満応法界、普現一切群生前」(仏身は充満して法界に遍し、普く一切の群生の前に現ず)の原型はすでにそこにみられる。そしてその仏身の現前する仏塔において祈り(三昧)の形式がおのずと成立し、また賛歌等が奏せられ、宗教儀等も成立してゆく。そしてそこに必然的に原始(○○)大乗教団が成立してゆくことになるのである。
ところで、この仏塔の建立には相当額の費用も必要であり、多くの仏塔の建立にはその寄進者の名を刻む碑も残されている。その刻まれた人たちの人名をたどることによって原始大乗教団の構成メンバーも明らかになる。たとえば中村元博士はその一研究成果としての一碑文においてインド人の名のみでなく、ギリシア人の名も刻まれ、とくにギリシア人の女性の名も多く刻まれていることに驚いている。そのことは紀元前一世紀の前半において、すでにギリシア人の女性たちも仏塔前において念仏していたことを意味しているのである。仏塔崇拝からやがて仏像崇拝へと転換してゆくことになるが、それはとくにギリシア人の仏教の信仰者たちにとっても必然的といえるいとなみであった。それはまさにインドにおける形相主義の展開ともいえるものにほかならない。インドにおいて多くのアポロン神やアテネ神の彫像が考古学的に発見されているが、それらは、その当時インドに在住したギリシア人たちの祈りの信仰の対象であったのである。そしてかれらギリシア人において仏教への信仰による仏塔崇拝から仏像礼拝への必然的な転換がなされていったことが考えられるのである。かくて原始大乗仏教の成立のプロセスにおいて、おのずと念仏三昧の実践が形成されていった。そして、この実践においてその後二千百年にもわたる大乗仏教の実践の核が形成されていったのである。
初期大乗仏教における最も重要な契機は、『般舟三昧経』の成立である。そしてその実践がなされていったことである。そしてこの般舟三昧は原始大乗仏教における仏塔崇拝から直流しているものなのである。
般舟三昧とはサンスクリットのpratyutpanna すなわち prati + utpanna の音写と考えられる。ここで pratiとは、「近くに」、「眼(面)前に」、「各々において」等の意であり、utpannaとは「現前す」、「出現す」等の意味である。それゆえに「般舟三昧」とは、「仏が衆生の眼(面)前に現前する」、「近く現前する」、あるいは「衆生の各々において現前する」等の意味が考えられ、いわゆるpratyutpanna buddha-samadhi が成立するのである。
『般舟三昧経』(支婁迦讖訳三巻本)自身によればこの「般舟三昧」は、
「何によってか現在諸仏悉在前立三昧を致すや。・・・独り一処に止まり、心に西方の阿弥陀仏、今現在したまうを念じ、・・・一切常に阿弥陀仏を念ず」(正 13 九〇五 a)
等と述べられている。そしてさらに仏(この経では、釈尊から阿弥陀仏へと展開されているのであるが)を念ずるその内容について
「・・・仏身に三十二相あって悉く具足し、光明徹照し端正無比なるを念ずべし」(正 13 九〇五 b)
と説かれている。すなわち仏の形姿を念ぜよ、と説くのである。それはさらに後代になって『観無量寿経』における「仏を思わん者は先ず当に像を観すべし(先当観像)」へと一貫してゆくものである。それはギリシア人たちがアポロン神を念じていた内容からアポロン der apollonische Buddhaへの転換の線上と連なっている。形のないものよりも形のあるもを優先して考えていたギリシア人にとってそれは必然的であった。
ところでこの経典においてかかる形相的思惟(念)ーインド仏教においては思惟と念とは同義語である)が必然的に空の展開へ相即しているのである。すなわちこの経典の「行品」において、
「念仏を用うるが故に空三昧を得。」(正 13 九〇五 b)
あるいは、
「この三昧を証すれば空定なること知る。」(正 13 九〇五 b)
等と述べられている。
すなわち空は空自身として証得されてゆくのではなく、形相的思惟の実践の中から開かれてゆくのである。より後代に成立した『般若心経』(紀元400年頃?成立)における「色即是空」rupam sunytaにおける「色」rupa とは、本来サンスクリットでは形相を意味し、「色即是空」も単なる「空の論理」にとどまるものではなく、初期大乗仏教以来の実践的背景が考えられねばならない。またこのようにして般舟三昧において仏像(形姿)が空への不可欠の契機となっていることが考えられるとすれば、かかる空思想の成立の背景にギリシア文化の関わりも予想せざるをえないであろう。
また般舟三昧がかかる仏の形像への思惟の集中にあるとしても、それは必ずしも仏像の成立を前提とした上での行法であるとは限らない。仏の三十二相等については、すでに釈尊の原始仏教の展開の最終期には成立していたのであるが、かかる三十二相への想念の集中は必ずしも仏像そのものの存在を前提にしない。むしろかかる三十二相への想念のいとなみが、ギリシア的な形相主義的想念とも相い俟って、やがて仏像そのものを成立せしめていったと考えるべきである。かかるいわゆる仏像の成立には単なる芸術的ないとなみよりもより根源的に実践的な契機が考えられるのである。
このようにして『般舟三昧経』において形相的思惟の遂行に即して空が露わになるのであって、そこから空が積極的に考えられるのである。
この般舟三昧が空の実践と相即していることは、この三昧が縁起の構造において成立していることが考えられるからである。この『経』(行品)では、この三昧の内容について「念仏の因縁に従って仏に向う」と述べられているが、ここで因縁とは玄奘以前の縁起に他ならない。すなわち念仏自体が縁起そのものであって、その構造において念仏が実践されていることを意味しているのである。なお、『般舟三昧経』には梵本がないが、チベット訳に対応する文として「仏を縁ずることに心を向ける」(玉城康四郎訳)がみられる。すなわち念仏の実践がそのまま縁起の実践になっているのであり、そこから必然的に空の世界がひらかれてゆくのである。それは決して私という実体があって、その私が仏を念ずる―そこでは観念論に堕す―のでもなく、また実在する仏、すなわち先住論的な仏―私たちは最初はそこから抜け出ることはできないとはいえ―まさにかかる主‐客(私と仏)関係に即してその念仏が縁起の構造そのものであるので、念仏そのものにおいて縁起(空)の実践が遂行されてゆくのである。
それゆえにここで空が積極的に展開されるとしてもその空は色(形相)を離れない。いわゆる「空不異色」(心経)なのである。
そのことは空を説く原始的般若経典たる『道行般若経』においても、また後代の『文殊般若経』等においても同様であり、これらにおいて空が説かれながらも般舟三昧が、あるいは『文殊般若経』では、一行三昧ないし一相荘厳三昧が説かれる所以である。
そのことはたとえば最古の般若経典たる『道行般若経』(愚無竭菩薩品第二十九)における次のごとき文、すなわち
「ブッダが完全に涅槃されたのちのある人が「仏の形像」をつくるとしよう。ひとは仏の形像を見てひざまずいて拝み、供養しないものはない。その像は端正ですぐれた形相をもっていて(ほんとうの)ブッダと少しも異なっていない。ひとはそれを見て歎称し、花や香やいろどった絹をもって供養する。賢者よ、仏という神が像の中にあるのであろうか」(梶山雄一『般若経』(中央公論社)七六~七七頁の訳による)。
と述べているところからも明瞭である。また、『文殊般若経』における一行三昧も玄奘訳では「一相荘厳三昧」ekavyuha-samadhi となっており、いわゆる一相荘厳への想念の集中としての形像的思惟において空の実践が遂行せられていることが知られるのである。
中国の禅の第四祖道信(580―651)はこの『文殊般若経』所説の「一行三昧」によって空の世界を開いていったのである。(後述)
『般若経』は、単なる空を説く経典と固定して考えられるべきではない。むしろ般若経典にも、原始大乗仏教以来の塔像崇拝は直流しているのである。そしてまた空を説く『般若経』になぜ般舟(念仏)三昧が出てくるかの必然性が考えられるのである。
このように般舟三昧の実践と空の実践とは実に相即しているのである。如来への想念の集中は、そのこと自体において自己脱却がなされ空の実践となっているのであって、両者はその実践においてどこまでも一つなのである。
山崎弁栄も念仏三昧の実践を説くに際して、
「(如来の前で)あなた(念仏の実践者)の心はなくなりて、残るところはただ如来様ばかりとなり候」
と述べているが、作仏(如来となる)に即して、心がなくなる(空)ところが述べられているのである。このように空はいわば念仏三昧に即して、あるいはその結果成立してゆくのであって、最初から空が根本的な原理として存在しているものではない。かかる点で膨大なる般若経典群の成立も塔像崇拝―念仏三昧の線上において成立していったことが考えられるのである。しかしながら後代、この線上から離れて『金剛般若経』や『般若心経』等にもみられるように全体としての念仏三昧の実践から空の一面のみ強調されるようになる時―その空の展開自体念仏三昧の必然的展開であるとはいえ―空のみが単独に説かれてゆく経典が成立していったのである。初期大乗経典において般舟(念仏)三昧と空を説く般若経典の成立が考えられるとしても、それは決して空を説く般若経典の中に念仏の思想が混入したのではなく、塔像崇拝に連なる般舟三昧の実践の中から空が、そして膨大なる般若経典群が成立していったのである。
『華厳経』はその「六十巻本」や「八十巻本」等にもみられるように膨大な経典群より成立している。しかもそれは一挙に成立したものではなく、数百年の永きにわたって成立していった経典群で、それらは後代になって、一つの経典として編集されまとめられていったものである。そして「六十巻本」でいえば、その中の「名号品」、「光明覚品」にはそれに先行する原始華厳が予想されるのであるが、その「光明覚品」において、「一向に如来を信じ・・・諸仏を念ずることを離れざれ」といった念仏三昧を強調する文がみられる。
また同様に、『華厳経』の中でも「十地品」(その原型は『十地経』等)と「入法界品」(その原型は「不可思議解脱経」)も『大智度論』への引用にもみられるように大乗仏教の初期の段階で成立していたことが知られる.そしてこれら両品は『華厳経』全体を支える二大支柱をなすものなのである。
ところで、まず菩薩の十地(修行の十の段階)が説かれる「十地品」は、一貫して念仏三昧が説かれるのである。その念仏三昧は原始大乗仏教に直結し、般若経典に直流していたところのものであるが、その念仏三昧が「十地品」にも一貫して流れているのである。そして『般若経』においては、たとえば「不離仏値遇仏(『大品般若経(往生品)』)として説かれてきた念仏三昧が『華厳経』においてもさらに豊に展開されてゆくのである。
たとえば同経「十地品」の中の第七現前地において、
「菩薩、現前地に住すれば数百千億の仏をみたてまつることを得」(正 8 五五九 c)
等の文が見られる。ここで見仏とはもちろん念仏三昧の極致を示している。そしてまた、
「この菩薩、現前地に住すれば般若波羅蜜において偏えに勝る」(正 8 五五九 c)
と説かれ、念仏三昧に即しての般若波羅蜜の完成が述べられるのである。
このようにして十地品における十地の各段階においてくり返し「菩薩、この地に住すれば・・・皆仏を念ずることを離れず」の文が述べられるのである。すなわち十地の全体が念仏三昧によって貫かれていることが知られる。このようにして「十地品」における菩薩の実践の中核が念仏三昧そのものなのである。
「十地品」と同様、「入法界品」においても念仏三昧の実践がくり返し説かれてやまない。「入法界品」はいうまでもなく善財童子の求道物語であり、最初の文殊(師利)菩薩から第五十三番目の普賢菩薩に至るまで求道の内容が示されてゆくのであるが、その最初の文殊菩薩においても、また最後の普賢菩薩においても、その説かれるところは念仏三昧なのである。いわば、「入法界品」においても念仏三昧の立場は一貫しているのである。
そのことは、たとえば文殊師利の、
「広大の心を発して・・・一切の仏を見たてまつりて、恭敬し供養して心に厭足なく・・・」(正 9 六八七 b)
は、そのままが念仏三昧の実践そのものの内容にほかならない。
同様に最後の第五十三番目の普賢菩薩もみずからの実践を、
「我れ、過去不可説不可説の世界海の微塵に等しき劫において・・・仏を見たてまつりき=念仏三昧」(正 9 二七八 a-b)
等と説かれさらに、
「如来の浄智の月は・・・直心の水に処して・・・清浄の法身の中に、像として現ぜざるなし。・・・」(正 9 七八八 a)
等とも説かれ、現前する像(形像)がそのまま法身と相即的にかかわり、まさにこのような状況としての念仏三昧の世界が論述されているのである。
なお、『華厳経』の全体にわたってこの念仏三昧はくり返し詳述せられ、そこからのさらなる広大な仏教の真理の世界が展望されてゆくのである。すなわち、如来出現、入法界、虚空三昧、海印三昧等としてである。
インドの大乗仏教は多くの訳経僧たちによって中国へと伝えられ、やがて中国仏教が成立していった。そしてやがて中国における禅の成立をみることになる。
ところでインドから渡来した禅宗の初祖、菩提達磨(5世紀から6世紀前半)には六祖慧能以降に形成された中国独自の立場からイメージされた達磨像が一般化されている。しかしながら、本来のかれの実像は、たとえば玉城康四郎も指摘し、「菩提達磨でさえ、最晩年になっても、「口に南無仏と唱え、合掌連日」といっていたではないか」と論じている(『仏教の思想』4 禅仏教 八頁)ように念仏していたことが考えられる。
初期の禅宗は資料的に不明な点が多いのであり、第四祖道信(580―651)の頃になって次第に歴史的客観性が明確化される。初期禅宗史の資料としては『楞伽師資記』(浄覚選、713―716頃成立)が重要である。そして、そこでは、たとえば道信が一行三昧、すなわち般舟三昧によって悟っていったことが述べられている。
道信が実践した一行三昧とは、曼荼羅仙訳の『文殊般若経』によれば、
「一行三昧に入らんと欲せば、まさに空閑に処して諸の乱意を捨つべし。相貌を取らず、心を一仏に繋けて専ら名字を称し、仏の方処に随って端心正向し、よく一仏に於いて念念相続せば、即ち是の念の中によく過去未来現在の諸仏を見ん」(正8七三一 b)
と述べられている。また玄奘訳(『大般若経第五七五曼殊室利分』)では、
「かくの如き三摩地に入らんと欲する者は・・・一如来に専心繋念し、審かに名字を取り、善く容儀を想え・・・・・」(正 7 九七二 a)
と説かれている。
ここで一行三昧に対応する一相荘厳三昧の原語ekavyuha-samadhi からも理解されるように、この三昧の内容が如来の容儀すなわち形姿の想念への集中を意味している点でインド大乗仏教の初期経典たる般舟三昧に直結していることはいうまでもない。
それ故に『楞伽師資記』では道信について、
「・・・心心相続すれば忽然として澄寂なり。さらに所縁の念なし。『大品(般若)経』に云わく、無所念とはこれ念仏に名づく。何らをか無所念と名づく。心を離れて別に仏有ることなく、仏を離れて別に心有ることなし。念仏とは即ち念心なり、求心とは即ちこれ仏を求むなり」(正85 一二八七 a)
とも述べられている。ここでは念仏はそのままが空(澄寂)であり、空がまたそのままが念仏であることが示されている。また仏を念ずることが心を念ずること等が説かれ、そこにはいわゆる念仏の中に禅の地平が百パーセント開かてていることが知られる。なお、禅宗が明確に成立せぬ段階では、未だ座禅も考えられず、道信を始め多くの禅者たちは般舟三昧ないし般若経等によって修行がなされていったことが考えられる。
またここで「心を離れて別に仏有ることなく、仏を離れて別に心有ることなし」とも説かれているが、かかる心と仏の関係は縁起そのものである。しかしながらこの両者の文がその相即性あるいは縁起性から離れて、たとえ寸亳でも二つに別れる時、そこにいわゆる禅と念仏とが分かれる。たとえばそれはアルプスの峰に降る雨水にも似ていて、その落ちる水滴の寸亳の差が日本海に流れるか太平洋に流れるかそれぞれの差となってゆくがごときである。
そして「心を離れて別に仏あることなし」に傾斜して独立してゆくとき、禅にみられるように仏は心から浮き上がり、仏は二次的になり、さらには空に偏する無神論的傾向をたどることになる。逆に「仏を離れて別に心あることなし」の方向に他力的な念仏門が展開されてゆくことになる。そして、結果的に禅浄二門が分かれてゆくことになるのである。そして道信はにまさにかかる禅浄未分の世界から一歩禅門への成立がたどられてゆくことが考えられるのである。かかる禅浄の対立の原因は仏と心との縁起の忘失によるといえるのである。かくて唯心(自己)あるいは「直指人心」を説く禅門が、そしてそれと対応して禅門とは別に念仏門が展開されてゆくことになるのである。しかしながら、大乗仏教の本来の立場からいって一貫するところは縁起そのものの実践としての念仏三昧自体であり、インドにおいてはそこから空の実践としての般若波羅蜜の行法が成立し、中国においても同様に念仏(一行三昧)から禅の成立がたどられるのである。
なお中国におけるかかる禅の展開には、中国人の基本的傾向としての超越者の不在、あるいは老荘思想が土台にあってそこから中国禅への動向を考えることができる。かかる点で禅はインド大乗仏教を全面的に受容しつつも中国的な土着性が予想されるのである。
玉城康四郎は『仏道探究』の中に、
「念仏といえば、今日では浄土教の独占のようにいわれ、禅定は禅宗の際立った特徴のように考えられている。しかしブッダにおいては、念仏と禅定の二つが一つになったのではなく、もともと一つである。念仏がそのまま禅定であり、禅定がそのまま念仏である。」(同書 36頁)
あるいはまた『仏教の思想 4 禅仏教』の中で、
「(禅と浄土の統合の問題よりも)もっと重要な問題は、むしろ浄土教と禅とを仏教のなかで位置づけてみることである。浄土教は、大乗各派の教理と比べると、特殊であり異質のようにも見える。しかし大乗諸経典のなかでとらえてみると、必ずしもそうではない。むしろ浄土教として展開する必然性を含んでいると思われる。・・・しかし禅宗として形成された発想・見解のなかには中国民族の恣意性も現れて、仏教にそぐわない面も出ている」(同書 148―149頁)
そしてまた、玉城は、
「・・・中国仏教で浄土教と禅宗が分かれ、日本仏教はそれを受けついだ。禅定といえば禅宗に属し、念仏は浄土教の占有物となった。二つに分かれたためのプラス面もあるが、現代ではマイナス面だけが残った。今日では、浄土教も禅宗もブッダの原点を深く省みる必要がある。」(『悟りと解放』81頁)
とも述べている。
ここでブッダの原点とは大乗仏教を貫通する念仏三昧そのものにほかならない。そして大乗仏教をその全体において展望していたのが実に法然である。法然は59歳の折の「東大寺十問答」の中で、「八宗九宗みないづれをもわが宗の中にをさめて、聖道浄土の二門とはわかつなり。」(『捨遺和語燈録』巻下)
とのべている。ここで南都六宗に真言天台を加えた八宗にさらに禅をも加え九宗のぜんたいが浄土門(わが宗)の中にあると述べている。『一切経』五回までも読んだとされる法然にはその全体が浄土門のうちにみられていたのである。法然には、聖道浄土二門の対立をも包含する浄土門の展望があったのである。
さらに法然においては66歳にいたって、かかる全体的な展望が南無阿弥陀仏の称名に止揚されてゆくのである。かれは『選択本願念仏集』第3章において称名の功徳について論じ、名号のうちに仏法のあらゆる万徳の摂在を説いているのであるが、そこには聖道と浄土との悟りの全内容の摂在が説かれている
のである。そしてそれはそのままに実践体系論となっているのであり、そこで禅浄の対立が念仏の実践の上に止揚されている点が、きわめて重要である。 そしてその内容を念仏三昧の実践を通して実証し実現していったのが山崎弁栄であった。
一切経を五回も読んだといわれる法然の浄土宗には、いわゆる八宗兼学の精神がながれていた。それは近代になって、たとえば福田行誡(1806―1888)においても強調され、山崎弁栄自身も一切経を読了し、それを実践していったのである。すなわち21歳にして出家した山崎は、仏教を単なる学問上の知識にとどめず、熱烈に念仏三昧を行じたのである。その修行時代の記録に、
「愚衲、昔、二十三歳ばかりの時にもっぱら念仏三昧を修しぬ。身はせわしく、事に従うも意は暫らくも弥陀を捨てず、道歩めども道あるを覚えず、路傍に人あれども人あるも知らず。三千界中、唯(ただ)唯(ただ)心眼の前に仏あるのみ」(『日本の光 弁栄上人伝』)
といった文も残されている。またその頃、
「また一日、道潅山に禅坐して『文殊般若(経)』をよみ「心如虚空無処住(心は虚空のごとく住する所なし)の文に至って、心、虚空法界に周遍して、内にあらず、外にあらず、中間にあらず、法界一相の真理を会(理解)してのち、心、常に法界に一にせるはこれ平生の心念とはなれり。・・・」(『無辺光』)
といった体験も語られている。かれにおいては、念仏三昧と法界観とは一つの事実として悟入されていったのである。そしてさらに筑波山上での二か月の念仏三昧の修行へと連ってゆくのであるが、その所の宗教体験の内容を、
「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念 一心専念能所亡 果満覚王独了々」
(阿弥陀仏の身と心とは法界(宇宙全体)に遍満し、衆生念仏すれば仏も還(ま)還(ま)た念じたもう。一心に専ら仏を念じて能(私)と所(仏)とが亡ずれば、果満覚王たる阿弥陀仏が独り了々として現前している)と表白しているが、その内容は般舟三昧そのものにほかならない。このようにして山崎は生涯にわたってその宗教的実践の内容を深めていったのであるが、そこにはもはや禅浄の対立はない。それは禅浄でいえば、それぞれが百パーセントの展開がされていったのである。
そのことは大正5年の浄土宗総本山知恩院での高等講習会の論述にもみられる。ここで山崎は念仏三昧についての種々の経験を語りつつ、
「自性は十方法界を包めども、中心に儼臨したもう霊的人格の威神と慈愛とを仰ぐもあり。真空に偏せず妙有に執せず、中道にありて円かに照らす智慧の光と慈愛の熱とありて、真善微妙の霊天地に神(たましい)を栖(す)まし遊ばすは、これ大乗仏陀釈迦の三昧、またわが宗祖(法然)の入神のところなりとす。こいねがわくは識神を浄域に遊ばしむることを期せよ」(『宗祖の皮髄』101頁)
と論じている。ここで「自性は十方法界を包む」はそのままが禅体験の内容であるが、そこはまた霊的人格たる阿弥陀仏との全面的な交わり(念仏三昧)と相即しているのである。「真空に偏せず妙有に執せず」はまさにその消息を語っている。このようにかれにおいては禅浄の対立を大乗仏陀釈尊の三昧の原点に還り、またそこに法然の宗教体験の世界がみられるのである。山崎には「佗仏を念じて自仏を作る」の文にもみられるように念仏はそのままが縁起の実践に他ならなかった。そしてその縁起の線上に念仏がそして禅が開かれていったのである。そこでは禅と念仏は一つの世界である。
なお、山崎には多くの詩歌等も残されているが、そこにも禅浄一如の世界が豊かに展開されている。たとえばその一つに、
十万の億と説きしもまことには 限りも知れぬ心なりけり
がみられる。ここで「十万の億」とは、『阿弥陀経』所説の十万億仏土を超えた極楽世界のことであり、それをも包んでの心の遍在が説かれている点で、浄土門の教えに即して禅の世界が余すところなく展開されている。またそこには神話的な他界信仰の原始的信仰は完全に脱却されて禅浄の対立を突破した真実の世界が展開されているのである。今や現代の仏教は釈尊の原点に還ることによって禅浄の対立の超克が提起されるべきではなかろうか。
法然は「八宗九宗みないづれをもわが宗(浄土宗)のうちにをさめて」といった展望を開いていた。しかしながらそれにもかかわらず現在、浄土宗は宗派仏教の中の一宗派にとどまっている。しかしその法然の浄土宗は単に禅と対立するところの浄土宗ではなく、むしろかかる禅さえもそこから無限に展開されてゆくところの釈尊=大乗仏教そのものに連なるところの浄土宗のことであった(究竟大乗浄土門)。しかしながら禅が成立してゆくことによって、実にその禅さえもがそこから展開していった浄土門と対立関係が生じるようになっていったのである。そのことは大乗仏教そのものの展開の上からいっても不幸な出来事であった。山崎弁栄はみずからの宗教的実践(念仏三昧)によって禅浄の対立の地平を突破し、釈尊の根源底に還ることによって、新しい宗教の創造を試みたのである。それがかれの光明主義運動であった。そして山崎において、この光明主義はさらにキリスト教をもその視野にいれて新たなる展開が遂行せられていったのである。そしてそれは山崎滅後九十年を経た現在においても足下の課題でもあるのである。
(河波昌)