思索

山崎弁栄 ―近代はなぜ「霊性」を必要としたのか―

霊性の定義

 1944(昭和19)年、鈴木大拙の『日本的霊性』の刊行を切掛けに、霊性という言葉が江湖に広まったのは事実だが、彼が最初にその言葉を用いたわけではない。昨今、にわかに論じられること多くなったこの術語の歴史と発展の経緯は、未だ十分に論じられていない。
 古くは中世にさかのぼるというが、文字を頼りにそこまで遡っても、霊性の歴史は明らかにはならないだろう。詩の歴史をたどれば和歌に行きつく。宗教の文字が用いられなくても、人間に信仰があるのと同じく、「霊性」という表現を伴わなくても、霊性の実践は古くから行われてきた。私たちが今、接している「霊性」の文字は、中世あるいはそれ以降に用いられた「霊性」ではなく、哲学、芸術、科学、主観、客観という言葉と同じように、明治以降、すなわち日本が他国との接近を迫られて以降の近代に生まれた百数十年の歴史をしか持たない新しい概念に他ならないのである。
 言葉は、今の必然にとって生まれる。近代はなぜ「霊性」を必要としたのか。霊性は、精神ではない。殊に日本精神というような言葉は全く関係がないと鈴木大拙はいう。戦争が激化していたとき、「精神」という言葉が政局に付随し、原意から遊離していくのを見て、彼は、強く警鐘をならした。霊性は倫理を超える。それは否定を意味しない。包含し、変容することだとも鈴木大拙は書いている。「霊性を宗教意識と云ってよい。但、宗教と云うと普通一般には誤解を生じ易いのである」、さらに「霊性に目覚めることによって始めて宗教がわかる」ともいった。
 鈴木大拙の思想を読み解こうとするとき、「宗教」の意味を考えることは、「霊性」に同じことを試みるより、ずっと重要だと私は思う。霊性への覚醒によって初めてわかるのが「宗教」だとしたら、彼の眼目が、霊性ではなく宗教にあることは疑いをいれない。
 ”To do good thing is my religion"(善いことを行う、それが私の宗教である)と彼が書いた英語の書がある。これが彼の「宗教」の定義である。ここには教義、論争も入る余地がない。鈴木大拙が禅門から禅を開放したことはさらに論じられていい。彼が亡くなったとき、鞄には親鸞『教行信証』の英訳が入っていたという。この人物をいつまでも禅思想家と呼ぶわけにはいかない。
 宗門を超えて活動するという試みは、思想的論究とは別な出来事として、木喰、円空といった遊行僧たちによって実践された。彼らもまた、日本的霊性の担い手だった。全国の村々に眠っていた木喰の仏像とともに、その霊性を蘇らせたのは、柳宗悦である。
 民芸の発見者となる以前、神秘哲学を実存的に論じた柳宗悦の業績は再評価さなくてはならない。仏教、儒教、道教、キリスト教、イスラームまでも視野に入れ、東西の神秘思想と神秘家の実相を自らの言葉で、詩的熱情をもって語った人物を彼以降、日本思想史は、二三の例外を除き、持っていないのである。
 柳宗悦は鈴木大拙の弟子である。その関係は生涯変わらなかった。弟子が先に逝去し、継承は実現しなかったが、鈴木大拙の蔵書と研究成果を管理する松ヶ岡文庫後継の約束も相互に了解があった。彼らはともに、「霊」あるいは霊性の場に、宗門、宗旨の彼方へ飛躍する可能性を見出していた。

 今人について尤も注意すべきことは自覚心が強過ぎる事なり。自覚心とは直指人心見性成仏の謂にあらず。霊性の本体を実證せるの謂にあらず。自己と天地と同一体なるを発見せるの謂にあらず。自己と他と截然と区別あるを自覚せるの謂なり。(『断片』)

 夏目漱石の言葉だが、彼もまた霊性に、個を超える何かをとらえている。見性は「霊性の本体」への目覚め、また、それは「自己と天地と同一」である発見につながるというのであろう。鈴木大拙が、霊性を「大地」への復帰として論じたことを思い起こさせる。
 岡倉天心も『茶の本』で“Indian spirituality has been derided as ignorance”、インドの霊性は、これまでも無知として嘲弄され続けてきた、と東洋に対する西洋の変わろうとしない無理解を論じている。さらに『東洋の理想』において、天心は「霊性とは、事物の精髄であり、生命、万物の魂を決定するもの、そして、内に燃える炎として認識された」と書いている。
 霊性(spirituality)という術語を積極的に用いたのはキリスト教界だった。明治プロテスタントに大きな影響力をもった植村正久が1901(明治34)年に『霊性の危機』という著作を出した。無教会を率いた内村鑑三は、1904(明治37年)に「懐疑は難問題を解決し得ない時の智性の困苦(くるしみ)困苦ではない。神を感得(かんとく)感得し得ない時の霊性の苦痛である」(「懐疑」)と書いている。
 カトリックでは、アシジの聖フランシスコの霊性、あるいはフランシスコ会、ドミニコ修道会の、あるいは中世スペインの霊性というように、個人、共同体、文化における求道性を意味した。
 ジャック・マリタンは「霊性の優位」といった。マリタンは二十世紀前半フランスで、大きな影響力をもったカトリックの思想家である。彼がいう「霊性」とはカトリック教会の共同体としての意思のことである。マリタンの発言が政治的な場面だったこともあって、ある時期、フランスおよびヨーロッパでは「霊性」は社会的あるいは政治的存在としての教会の正当性を表現する術語として流布した。マリタンと鈴木大拙、それぞれが意味する「霊性」には大きな隔たりがある。また、『日本的霊性』で彼は自分のいう霊性は「加特力(カトリック)教の僧団型」のそれ、修道会的「霊性」とも異なるとも書いている。
 座談会「近代の超克」をはじめ、戦前、カトリシズムを代表し、言論界で発言していた吉満義彦の論考にも「霊性」の表現がある。しかし、その思想を理解する重要な術語、鍵概念というわけではない。
 彼の師、岩下壮一になると、「霊性」の文字はほとんど見ることができない。しかし、「霊的」という文字は頻出し、思想の中核をなす言葉であるのは、吉満義彦の場合も同じである。
 昨今、霊性論がにぎやかなのは、不可視なものへの憧憬とそれを渇望する欲求のためだろう。しかし、「霊性」を論じるなら、まず「霊」を考えなくてはならない。主体から遊離して、その「性」を巡る言葉を重ねるのは、画像の生物を見て、その実態を語るのに似ている。
 夏目漱石、岡倉天心の文章からも、彼らに「霊」の実存的体験があり、その上で霊性の文字を用いていることは伝わってくる。そうでなければ岡倉天心のように、霊性を炎として表現することは起こり得ないだろう。もちろん、ここでいう「霊」は霊魂を意味しない。あるいは今にち用いられる「心霊」とも関係がない。
 「霊性」とは、「霊性そのものは超個己底であるが、それは個己の上に直覚せられるとき、本当に絶対なのである」と鈴木大拙がいう。個は、あるとき、個を超えて、「超個」として世界に現れるというのである。そこは、文化、民族、伝統、民俗が共時的に交差する場となる。また、聖性の座、個の求道性、そして共同体の霊的発展の基盤を意味する。聖性も霊性と同じく、キリスト教の術語ではない。聖性なき霊性はありえない。霊は、その根柢において聖なるものである。
 霊性論における鈴木大拙の最も大きな功績は「霊性」を共時的構造、すなわち超時間的実在として力動的に論じたところにある。「共時」とは、物理的時間軸を超越した「時」の流れ。永遠の今を基点に、過去・未来を「今」として、とらえる視座であり、存在点。彼がこれを認識していなかったとしたら、法然と親鸞を一人格として論じる、という着想は生まれない。
 しかし、これまで論じた人々に先んじて、「霊」あるいは「霊性」を中核に据え、体系的思想を築いた人物がいる。山崎弁栄である。
「霊」、「霊性」あるいは聖性とそれに連環する言葉が論じられる頻度も深さにおいても、霊の実相を高次な論理によって展開する透徹した実践者としても、山崎弁栄は日本思想史において類例を見ない。浄土門の僧だったが、五十五歳のとき、自らの宗門、光明主義を樹立した。
 空海、最澄はもちろん、鎌倉仏教の宗祖たちがそれぞれの宗旨、教学史においてだけでなく、思想史においても論じられるべき対象であることを、私たちが発見、実践したのは、近代、それも本格的には戦後のことである。山崎弁栄は未だ思想史に現れていないのは、当然であるのかもしれない。宗門としての光明主義は今も、活発に続けられている。設立に彼が奔走した光明学園相模原高等学校も存続している。
 山崎弁栄が広く注目を集めた時期がある。数学者岡潔が山崎弁栄にふれたエッセイをたびたび書いた。岡潔は、高瀬正仁による詳細な評伝も書かれ、今日再評価されつつある「世界的な」という表現が文字通り当てはまる近代数学界の巨人である。彼は熱心な光明主義の帰依者だった。小林秀雄が岡潔の文章に触れたことが切掛けとなって実現した、二人の対談『人間の建設』はベストセラーになった。岡潔が読むことを強く勧めたのは、高弟田中木叉による山崎弁栄の評伝『日本の光』である。
 今にち、私たちが山崎弁栄の著作を読むことができるのは、田中木叉の働きによる。彼は師の没後、全国を回り遺稿、書簡を集め、編纂、刊行する。しかし、山崎弁栄研究は緒についたばかりである。先師の研究においても、生前の山崎弁栄を知る笹本戒浄、「没後の入門者」である山本空外がそれぞれの立場から論考を残している。宗教哲学者河波昌も評伝を書いている。しかし、さらに注目するべきは彼の著作『光の現象学』と『如来光明礼拝儀講座』である。発言されたのは宗門内部だが、論考は普遍的論議に耐えうる内実を備えている。そこで彼は山崎弁栄を世界思想史に布置して論じる。
 山崎弁栄は、1859年(安政6年)生まれ、没年1920年(大正10年)に62歳で亡くなる。没後90年、歴史はこの人物を思い出そうとしている。

霊性の彼方

 鈴木大拙と山崎弁栄に接点があれば日本宗教史は大きく変わっていただろう。鈴木大拙は早くからアメリカに渡り、山崎弁栄は生前、著作を世に問うことをほとんどしなかったから、接点はなかったのは仕方がない。
 生誕の地、金沢は真宗と縁が深く、鈴木大拙は年少のころからその異端、秘事法門に触れていたというほど関わりは深い。彼は清沢満之の血脈を継ぐ、曽我量深、金子大栄らとも親交を深めていた。浄土教に関する著作も少なくない。法然と親鸞を一人格だと考えるといった彼は、浄土宗と浄土真宗の差異は問題にならなかっただろう。
 視座を世界に広げれば、二人はそれぞれの場で働いたのである。二人を出会わせるのは残された者の役割かもしれない。山崎弁栄もずっと日本にいたわけではない。この人物は、何かに導かれるように釈迦が釈尊になった地、インド・ブッダガヤを訪れている。もちろん、同様の試みにおける近代日本最初期の人物だった。
 同時代人を頼りに、山崎弁栄を年譜上に布置してみる。内村鑑三が生まれたのは、山崎弁栄の2年後、1863(文久2)年。岡倉天心、夏目漱石が生まれたのは、その4年後、1867年である。彼らは「世代」をほぼ同じくしたといっていい。鈴木大拙は山崎弁栄の誕生から11年後、1870年に生まれ、先に見たように、『日本的霊性』が刊行されたのは1944年。山崎弁栄の没後24年経過してからである。
 念仏嘉平といわれた篤信の父親に生まれ、12歳のときに阿弥陀三尊に想見した彼が、21歳のときに出家するのは、自然な道行きだった。
 さまざまな苦行を経てきた道程が伝記に記されている。彼が自らに強いた厳格な修道は、過酷の文字も不十分なほどに厳しいものだった。黄檗版の一切経を読破したのは26歳のときである。
 透徹した修行者、伝統的な教学を修めた仏教者、広く日本中を練り歩いた布教者であり、体系的思想の樹立した思想家。書と絵をよくした。この人物が歩いた後にはいくつも奇跡譚が残っている。彼は、実践的叡智を哲学と実践の両面で表現し、高次な融合を実現した、極めて特異な人物だったといっていい。
 今も彼を慕う人々は「弁栄聖者」と呼ぶが、特異な存在は生前から、宗門内でも知られていた。当時浄土宗管長をつとめていた福田行誡は、幾たびも面会を求めた。さまざまな理由をもとに、弁栄が辞退を続けたため、面会は実現しなかったが、福田行誡は入寂の前に、二十五条の法衣を彼に送っている。ここには不可視な面会と無言の伝達が実現していると考えるべきだろう。
 以下に引くのは、山崎弁栄が生前に刊行した唯一の著作『宗祖の皮髄』の一節である。

 彼は実に美なり愛なり。我等が霊性は之を愛慕して益々高遠に導かる。彼は最も遠きに在て而も最も近くして、常に我等を向上せしむ。彼を葵心して愛慕するは奥底の霊性より衝動する力なり。霊性が如来を愛するは同性相吸引する自然の勢力なり。他人より「彼を忘るる勿れ」と命ぜられて初めて動く力に非ず、自分を忘れんと欲するも能わざる霊的の衝動なり。(『宗祖の皮髄』)

 時代を感じさせる文体だが、ゆっくりと読んでいただきたい。1916(大正5)年、当時の管長の命により知恩院で行われた高等講習会で行われた講義「宗祖の皮髄」の記録である。
 このとき彼が知恩院に招かれたのは、名声ゆえに、というだけではなかった。すでに光明主義の活動を始めていた彼を、異端、すあわち「異安心」だという者もいた。宗門の役員を務めていた井上徳定は、本部に猛烈な抗議を申し立てたほどだった。しかし、講義当日になり、最終列で聞いていた井上徳定も終わるころには最前列で聴いていたというほど、講義は聴衆を魅了した。『宗祖の皮髄』が刊行されたとき、井上徳定は広く読まれることを切望すると序文を寄せた。
 この出来事は、当時の山崎弁栄の位置を象徴している。噂を頼りに傍観する者には異安心に映った。しかし実際彼に触れた者は大きく動かされずにはいられなかった。霊性の改革を使命とされた者は、ときに「異端者」の符号を背負わされることがある。珍しいことではない。宗教の歴史が殉教と迫害の歴史でもあるのはそのためだ。
 光明主義というとき、「主義」は、マルクス主義というときのそれではない。同質であるなら、それは一つのドグマに過ぎない。清沢満之が「精神主義」といったときも、それが新思想であることを表明したのではない。「絶対無限者という完全なる立脚地を得た精神の発達する条路、これを名づけて精神主義という」(「精神主義」)。それは「絶対無限者」への「条路」、すなわち、一すじの道だというのである。
井筒俊彦は『神秘哲学』でしばしば「神秘道」という言葉を用いた。神秘は「主義」というはあまりに広大無辺、深淵無底な実在、神秘は「思想」の枠には容易に収まらないというのだろう。柳宗悦は井筒俊彦に先んじて「神秘道」の文字を使っていた。小林秀雄は「道徳は遂に一種の神秘道に通じる。これを疑うものは不具者である」といった。柳宗悦、井筒俊彦、小林秀雄が用いた意味において、光明主義は、いま、光明の「道」と読みかえられなくてはならない。
 先の引用にあるとおり、山崎弁栄における霊性、それは、愛の「衝動」。存在的始原へと遡る本能である。霊性の初動は人間の業ではない。「彼」が人を愛するところに始まる。「彼」が愛せば、人は不可避的に「彼」へと向かう。魂はあくまでも「私」を表現するが、霊性は「彼」、すなわち超越者を現わす。ここでいう「彼」とは如来である。
 愛への本能的帰巣として展開された山崎弁栄の霊性の働きは、アリストテレスのいう「オレクシス;orekisis」を思い起こさせる。人間が神を求めるのは、人間的な実利や信仰心の深まりによってではない。それは、不可避な本能であるとアリストテレスはいう。
 如来が無尽の愛を無差別に分け与えることから山崎弁栄はその実在をときに、ミオヤ(御親)、大ミオヤと表現した。先の引用文にあった「彼」すなわち如来は、他者を愛すごとく存在者を愛すのではない。自らを愛するように万物を愛す。
 人間が不死であるのは、「ヌース」が不滅だからだとプラトンはいった。彼の叡智論は山崎弁栄の「霊」の教学に近似している。また、彼は、宗教の究極態を「超在一神的汎神教」(『人生の帰趣』「本尊観」)と表現している。「一切衆生は皆その大霊の分身たる霊性存する故に」と彼はいう。
 すべては「大霊」から分かれ出たもの、世界は超越的一者の分節であるという彼の霊的存在論は、プロティノスの流出論はもちろん、イスラーム最高峰の神秘哲学者イブン・アラビーの存在一性論を想起させる。イブン・アラビーは、哲学的概念として究極的絶対者を「存在」と呼んだ。万物は「存在」が自己展開したものであるとも彼は、いう。
 「存在」が絶対者なら、「存在者」はそれ以外のすべてである。一切の例外はない。人間、動物、植物、石、水などはもちろん、想念あるいは現象すら含まれる。万物は「存在」が不在であれば、実在しえない。存在する者は、「存在」からある働きを分有されることで「存在者」たりえる。その働きをイブン・アラビーは「慈愛の息吹」と呼んだ。万物が存在するのは、超越者の深い慈悲に基づくというのである。
 すべてが神であるというのを汎神論だとしたら、万物は神の表現だとするのを「汎在神論」といって区別する。
 ソロモン王にも野の花にも同じく神は働くと聖書にある。ソロモン王は神ではない。野草はもちろん違う。しかし、神の直接的な関与がなければ王も花も存在し得ない。花は神ではないが、花に神の働きを見ることはできる。詩人ポール・クローデルは一輪の花が咲くことが奇蹟なのだといった。
 ヒエロファニー、ミルチア・エリアーデのいう聖性の顕現も、汎神論的世界ではなく、汎在神論的実在界へと私たちを導く。聖なる石がある。聖なるものは自己顕現の場として一個の石を選んだ。石は聖別された受容体であって、石が聖なるもの自体なのではない。
 聖なるものは、石だけでなく、花に、水に、火に、土に、色に、光に自らを表す。むしろ、いつもそれらをも通じて自らを表している。井筒俊彦が自著に引用するイスラームの聖伝ハディースにある一節がその世界を著している。「私は隠れた宝物であった。突然私のなかにそういう自分を知られたいという欲求が起こった。知られんがために私は世界を創造した」。「私」、とは「神」である。
この言葉は、全世界、すなわち存在界自体が神の表出、表現に他ならないことを明示している。
 山崎弁栄の創造論的世界観は、汎在神論を超えて行く。「超在一神的汎神教」という言葉には、思想史上の汎神論と汎在神論を超える響きがある。プロティノスを論じ、同じく汎在神論を超える何かを見た『神秘哲学』の井筒俊彦の言葉を引いておきたい。それはそのまま山崎弁栄にもいえるのである。
 ここに詳論することはできないが、二人の思想あるいは彼らが見た存在の光景は類似というにはあまりに高次な一致を指し示している。「万有生起論」は井筒俊彦が強く影響を受けたイブン・アラビーの「存在一性論」を思わせる。

 この神的内在論に就いて、それがpantheismus(汎神論)か或いはpanentheismus(汎在神論)かを議論する必要もない。プロティノス自身の一者観の肯定的側面、即ち内在論的側面に於ては、神が万有に内在するのではなく、明かに万有が神に包有され、神の裡に内在するのである。

 啓示的体験と観照的思索によってのみ、山崎弁栄の教学が樹(た)樹ったのではない。それは西洋哲学および他の宗教との積極的対峙のうち形成されていった。著作には、仏教諸派の先達だけでなく、キリスト、マホメットあるいは孔子といった聖賢だけでなく、天理教の中山みきにも言及している。プラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、シュライエルマッハの名前を見ることもできる。なかでも特徴的なのはキリスト教との間で起こった、融通ともいうべき宗教的昇華である。
 山崎弁栄の教義において「重要な展開の一部は、キリスト教的であり、キリスト教そのものであり、さらにはキリスト教を超えてよりいっそうキリスト教的でさえあったのである」と河波昌は『光の現象学』の序文でいった。

 法身は宇宙の全体と能力とにて、此によって衆生は此本源ありて生産来て現に活きつつあり。法身からうけた霊性の卵は報身の光によって孵化せらる。報身の無量光明が衆生の心霊を摂めて孵化し給う能力は十方界に遍照するも、若し応身の釈尊が世に出でて懇切に教え給わねば衆生は自分の力で其報身の光明を仰ぎて之に霊化せらるるの真理を知ることは出来ぬ。(『無礙光』「霊性の孵化」)

 神は万物を産み、活かす、聖霊は霊性を照らすが、人間は自分の力だけで、霊的人格を自覚することはできない、神はイエスとして現れ、人間として生きた導きとなった、キリスト教三位一体の世界である。「法身 報身 応身の聖き名に帰命し奉る 三身即一に在ます最と尊き唯一の如来よ」(「如来光明礼拝儀」)と山崎弁栄がいうとき、如来は唯一神である。
 「それ仏に三身あり。教えはすなわち二種なり」(弁顕密二教論』)と空海はいう。「教え」とは顕教は「二種」、報身と応身のみで、「法身」を教えない、それは密教の領域だというのである。また、空海には大日如来が法身仏、それは光明主義の如来に等しい。
 ここに至っては狭義の一神教、多神教の概念は崩壊している。仏教は無神論であるという論議もまた、続けることはできない。
 日本的霊性の探求は、鈴木大拙が妙好人浅原才一を論じたところで止まっている。山崎弁栄と浅原才一間には九年の差しかない。先に生まれたのは、浅原才一である。再びそれが試みられるとき、私たちは山崎弁栄を論じ、そして、鈴木大拙へと進まなくてはならない。

(若松英輔)